「お手をどうぞ、レディ?」
「…あなた誰?」






   夏と氷と水面の影と。すべてが少し、狂っている。






「僕は、−−−−−」


聞こえない。男はくるりと回転した。意味は全く無い。
私が困惑して見つめていると、男も困ったような表情になった。
それからはにかんだように、黒ぶちの眼鏡の奥の目がとても細くなった。
笑ったのだ、と気付くと同時に彼はまた顔をそむけた。


「君は?」
「私?」
「そうだよ、
「今、私の名前を呼んだじゃない」
「キノセイさ」
「気のせいじゃ無いわ」
「幻聴だよ、
「ほら、また」
「あー、まいったな」
「降参ね?」
「そういうことになるな」
「ふふっ」
「ああ、このーーーーーが、降参なんて」
「ねえ、貴方の名前、(きこえない)」
「それよりお手をどうぞ?」
「…どうして。」


答えない。男は肩をすくめた。あたしも首をすくめた。
男は何も言わずに、ふう、と息を吐いた。
彼の吐息は酷く冷たく見えた。


「どうして、分かるの?」
「何が」
「私がどこかに行きたいって思ってること」
「そんなの、分からないよ、レディ」
「名前で呼んでくれないのね」
「君が嫌そうな顔をしたからさ」
「そんなことないわ」
「そうかい?じゃあ、でも、呼ばないよ」


にっこりと笑って、男は言った。
あたしは不満げに口を尖らせる。男はそれを見てますます笑った。


「何処へ行きたいんだい、レディ?」
「ここじゃない、どこかへよ」
「それは、まあ、だいぶ、曖昧だね」
「そうだけど」
「行きたいところは無いのかい?」
「…」


考えてみる。イタリア、フランス、アメリカ、日本、ドイツ。
外国に行くのも、楽しそうかもしれない。


「行ってどうするんだい?」
「…」


考えてみる。どうするって…どうするって、どうするんだろう。
今と別に、変わらないかもしれない。


「特には、無いかも」
「それじゃあ、どこにも行けないなあ」
「どうして?」
「どこにも行きたくないんだろう?」
「何処かに、行きたいわ」
「それとこれとは少し違うよ、
「あ、名前で呼んだ」
「おっと失敬」
「失敬じゃないけど」
「はは、まあね」
「それで、何が違うの?」
「そうだな…」


男は遠くを見る目つきになった。実際、遠くを見ていた。
男の視線を追ってみたけれど、何も見えなかった。
霧と雨と草の匂いがした。それだけだ。
男は首を傾げ、そうだなあ、と呟くようにかすかに言った。


「たとえばね」
「うん」
「うん、これはたとえ話なんだよ、レディ」
「ええ。自分でそう言ったじゃない」
「ま、そうだけどね…そう、たとえば、友達が3人居たとするよ」
「ええ。少ないわね」
「そんなことはないさ!」
「そうかしらね」
「何か君、生意気になってきたね…まあいいや。それで、そのうち1人がある1人を疑っている」
「どうして?」
「悪いことをするかも、ってね」
「友達なのに」
「ああ、レディ。大人の世界は難しいのさ」
「私だって十分大人よね?まあ、良いけど」
「お許し頂き光栄だ。それで僕は2人のうち1方を選ばなきゃならない」
「選ぶ?何に?」
「まあ、色々さ。そして僕は、良く分からなくなる」
「どっちを信じるか?」
「そういうことだね」
「さっきの1人が疑ってた方が、悪いんじゃないの?」
「僕はそうは感じなかった、とする」
「仮定が多いわね」
「たとえ話だからね。そして、僕はどうしたいか、となる」
「ええ」
「僕はさっきの1人に任せてしまって、失敗する」
「ふうん」
「どうにかしたいけど、どうにでも良いと、言っているとね」
「うん」
「余り、良い結果にはならないってことさ」
「そうなの?」
「そうさ」
「あんまり、関係あるように思えないわ、そのたとえ話」
「大ありだよ」


男は肩を落とした。私は男が消沈するのを見るのに耐えられなかった。
知り合って間も無いが、というより知り合っているのかどうかさえ危ういが、
私はどうにかしたいと思ったのだ。
勿論、私にどうにかできるとも思えなかったが。


「だってそれはしょうがないじゃない」
「しょうがない?」
「貴方は、皆を信じたんでしょう?」
「…」
「3人とも、信じたんでしょう?じゃあ、貴方は悪く無いわよ」
「いやいやいや、悪いのは僕なんだ、シリウスじゃなくてね」
「?」
「ああ、今のはね、僕が任せた彼」
「…その人も悪くないけど、貴方も悪くないわ」
「悪いさ」
「どうして!」
「どうしても、だよ、レディ」
「悪くないわよ。悪くないのよ、信じることは、全然」
「じゃあ、何が間違ってたんだ?」
「さあ。貴方でもシリウスでも無いのは確かだけれど」
「そうかなあ」
「絶対、そうよ!」
「…レディ」
「何?」
「君は、良い子だね」
「…。そうでもないけれど」


私は何処に行きたいのかも分からないような、小娘だし。
貴方のように見知らぬ人の手を取る事なんて出来ない。
貴方のように笑う事なんて出来ない。
貴方のように遠くを見ることなんて出来ない。
貴方に憧れていたのに、一体、どこへ行ってしまったの?


「君は、何処かに行きたい?」
「ここで良いわ」
「それは何よりだ。素晴らしい。踊るかい?」
「ふふっ、馬鹿馬鹿しいわ。素敵ね」
「全くだ。それでは、お手をどうぞ、レディ?」



私の手はその綺麗な手をすり抜けた。それだけは確かだ。






ふと気付くとベンチに座って水面を眺めていた。
すべてが少し狂っていた。男はもう居ない。もう2度と、会うことは無い。
ああ、ジェームズ?と私は呟く。懐かしい、遠い、痛い名前。
ただ、それだけのことだ。




















060504 [sin]ごめん、久々に、意味不明なのが、よくて。(ほんとにごめんだよこのひと!!)